「綾乃、嫁ぐ気は無いか?」
「はぁ?」
夕食後、珍しく祖父・茂久に呼ばれて本殿に参内した綾乃は、彼の言葉につい素の言葉を返してしまった。
けれどそれも仕方のない事だろう。
綾乃はまだ16歳。高校2年生と言う、学業に順じている立場だと言うのに、急に家庭を持たないかなどと問いかけられても実感など沸かないだろう。
と、祖父の茂久は苦笑した。
その呆れた様な表情に、綾乃は慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありません、当主。 ですが、急に何故その様な事を?」
「それなのじゃが……お前を嫁に欲しいと言ってきた者がおっての」
「……それは、三氏族の者ですか?」
茂久の言葉に、先ほどまでのいつも通りの綾乃の様子が急に纏う空気が変わった。
静かな水面の様な雰囲気を纏う姿は、紛れもなく嘉凪の家の直系に相応しき空気。
それと同じ空気を纏ったままの茂久は、静かに押し黙った。
その様子に綾乃は悟る。
当主が、自分を試しているのだと。
「私は、嘉凪の直系です」
水面に雫を零すように静かに、本当に静かに綾乃は言葉を紡ぎ始める。
「この身に流れるは竜神の守り人の血。そしてその血の直系の能力者としての力と誇り。
お家の為でしたら、我が身、喜んで竜神へと捧げる為に何処なりとも嫁ぎましょう」
堂々とした言い回し。そして決意を込めたその言葉に、茂久は微かに悲しそうに眉根を寄せた。
そう、こうやって嘉凪の次期当主として育てたのは、紛れもなく自分だ。
一族を想い、一族を守る為に自身を押し殺す。
そう、百の一族を守る為に、一である自分を殺すのだ。
それが当主としての務めであり、嘉凪の業。
だが、綾乃は既に次期当主の座から退いている。
だと言うのに彼女はこうして一族の為に、自分を殺してしまうのかと思うと、現当主とは言え茂久も人の子。
彼女の両親が他界してから娘の様に育ててきた綾乃の姿に、僅かに心を痛めた。
しかし
「― と、最近までは思っていました。」
ふと、綾乃が困ったように苦笑する。
でも直ぐに、大事な人を思い描いて、幸せそうに微笑んだ。
「当主。……私、大切な人がいるんです。」
「ほう?」
「嫁ぐ…と言うような事は、互いに話した事はありません。
私も、彼も学生ですし、彼もどこまで考えてくれているか分かりませんが、少なくとも私は当主に話をされるまでは考えた事もありませんでした」
お互い学生だから、そんな話をした事はない。
自分は全然思った事もないから、自分よりも大人な彼でも、多分考えた事なんてないだろう。
でも
しっかりと前に座る茂久を見つめ、綾乃はしっかりと言葉を音にした。
「でも……嫁ぐのであれば、私はその方がいい。嘉凪の一族の事も大事です。
けれど、彼の事も大事なんです。だから、私……」
苦しげに拒否の言葉を紡ごうとした綾乃を、茂久が静かに目蓋を伏せて首を振り、遮った。
「皆まで言うな、綾乃」
「爺ちゃん…」
「すまんな、試すような事を言うて。じゃが…申し出の相手を聞かずに断るのは、相手に失礼じゃろ?」
茂久の言葉にふと綾乃は首を捻る。
確かに申し出てきた相手の名前を自分は聞いていないし、茂久も一度も口にしていない。
「…うん。そう言えば、その申し出た人って、誰? 河瀬の家?それとも辰瀬?それとも嘉凪の従兄弟 ―」
「伊知郎じゃよ。お前の大事な人の」
「……………………………………え?」
茂久の完全に予想外な言葉に、綾乃が固まった。
彼女が想像していたのは、嘉凪の三氏族の従兄弟や親戚の誰かだったのだが……まさか、一族以外。
しかも先ほどまで綾乃が口にしようとしていた人の名前が出てくるとは思いもしなかったのだ。
そして十分に固まった後に、顔を真っ赤にして綾乃が慌てて叫ぶ。
「ちょ、…え!? じ、爺ちゃん、それ、本当!?」
「儂が嘘を言わんのを誰よりもお主が知っておろうが、綾乃」
ニマニマと楽しそうに笑う祖父の笑顔に、こう言う時は臣とやっぱりそっくり、って違う!などと心の中で混乱のあまりにセルフツッコミを入れながらも綾乃は茂久の言葉を頭の中で繰り返し、きちんと把握しようとしてみる…が…やはり無理だ。
「え、嘘…や、爺ちゃんが言うなら、嘘じゃないんだろうけど、…えぇっ!?」
突如混乱の坩堝に落とされた綾乃は、嬉しいやら恥ずかしいやら信じられないやらで脳内が大変な事になっている。
「面白いのぅ、お主は。 つい先日、伊知郎が儂を尋ねて来たじゃろう?その時に申し出てきたのじゃよ」
「…えーっと、爺ちゃんストップ。それって、確か一週間前くらいじゃない?」
「正確には五日前じゃ」
「だよねー。…………私、それまでに何回も伊知郎と顔合わせてるのにー…爺ちゃんも伊知郎も酷いー」
本殿の床に両手をついて落ち込む。
や、結社でも会っていたし、休みの日は伊知郎の家に遊びに行ったりもしていたのに…彼は全然そんな素振りなんて見せなかった。
確かにここ数日機嫌がいいなーとか思っていたが…まさかこんな理由があるなんて、誰が想像出来るだろうか。
「お主の修行不足じゃろうて。 して、綾乃返事はどうする?お主から直接伝えるか?」
「私が自分で言いますー。 もう、本当に爺ちゃんも伊知郎もずるいー。」
「臣もその場におったが?」
「ちょっともー、臣も居たなら彩華も居たんでしょー!? なにこの、疎外感……」
当人を置き去りにして、周囲ばかりが知っていたのかと思うと本気で凹む。
いや、申し出が嫌とかそんな訳ではなく。
「して、綾乃。 直接伊知郎にはお主が答えるとして、当主への返事は如何に?」
その言葉を聞き、綾乃ははっとする。
そう、茂久は現在の嘉凪の当主であり、一族の婚姻を許可するのも彼の役割だ。
彼の言葉に、纏う空気を再び元に戻し、姿勢を正した綾乃は、真っ直ぐに当主であり、祖父である茂久の自分と同じ赤銅の瞳を見つめた。
「― 当主茂久様に、申し上げます。 嘉凪家直系、当主・嘉凪茂久様の孫である嘉凪綾乃、私は ―」
嘉凪(背後の人):後はまあ、綾乃本人に聞いてくれ。(笑)PR