「伊知郎」
後ろから呼ばれて振り返ってみれば、そこには黙って両手を差し出している綾乃の姿。
何となく拗ねたような今にも泣きそうな表情が、子供が親に抱きしめて欲しいと強請っているようで、苦笑しながらも伊知郎は綾乃を抱きしめた。
「どうしたんだ、急に」
こうしてハグを要求される事は、実は大して珍しいことでもない。普段はしっかりしていて母親や姉を連想させる彼女なのだが、特定の人物に対してはこうして甘えてくる事もたまにある。特にその筆頭、そして特に頻度が高いのが伊知郎なのだ。
「…人肌が恋しいだけです」
胸に顔を埋めて、背中に回した手でギューっと抱きつきながらも不機嫌そうな声が返ってくる。不機嫌そうと言うよりは、わざと不機嫌さを装っているようにも聞こえるが。
「ふむ。それでは俺でなくとも問題ないと言うわけか」
「伊知郎がいい。今は伊知郎じゃなきゃ嫌。…狼なら、なおいいけど。」
「……我侭だな、俺のお姫様は」
低い位置にある頭を撫で、その髪に唇を寄せる。理由までは分からないが、何かあったのだろう。綾乃が甘えたがるのは、こちらの事情でなければ自分が力を充電させたい時が主だ。そして今もきっとそうなのだろう。
ふうと一つ溜息を吐いて伊知郎が急に綾乃の背中を手で支え、足をすくって抱き上げる。短い悲鳴が聞こえた気がしたが、ソファに座り込んで膝の上に座らせるまでお咎めがなかったので機嫌を損ねたわけではなさそうだ。
膝の上に座ったお蔭で目線が近くなったので、伊知郎は一度唇をゆっくりと重ね、その頬を優しく撫でた。
「これでもまだ狼の方がいいか?」
「ううん。今のままでいい。 ……ねぇ、伊知郎」
突然の口付けだったが、それすらも愛しくてギュッと抱きつく。
「あなたが好きよ。来訪者でも、そうでなくても…私を好きだと言ってくれる、伊知郎が好き」
なぜ来訪者だからと言って彼を迫害されなければならないのだろう。いや、彼だけではない。知り合いに来訪者も多いのだが、そのすべての人達が優しくて、皆一生懸命生きている人ばかりだ。その皆が、綾乃が好きな人たちばかり。
そんな彼らを排斥する、卑下する一族の視線が綾乃には耐えきれない。
許せないのだ。 彼らを知りもせずに拒むなど。
ギュッと抱きついた背中を、そっと宥める様に手の暖かさが伝わる。
「分かっている。俺も君が何者でも愛しいと思う。」
顔を上げれば優しく微笑んで優しい言葉をくれる。けれどその声色がどれだけ彼が真剣にその言葉を紡いでくれているのかもしっかりと伝えてくれた。
けれど少しだけ、本当にほんの少しだけ不安が首をもたげてしまった。
「私が ―」
嘉凪の家の者でも? そう聞こうとして、止めた。
そう聞いたところで帰ってくる答えは分かりきっている。そんな事で言葉を取り消すほど、彼は冷酷な人ではない。ほんの一瞬だけ不安が支配した心で、彼を無暗に嫌な気分にさせる事を言いたくなくて、適当な言葉で誤魔化す事にする。
「……髪を切っても?」
とっさに思いついたのがそれだったので、とりあえず口にしたのだが、我ながらもう少し別のものがあっただろうと呆れたくもなる。けれど、その質問を口にした伊知郎はくっくと楽しそうに喉を鳴らして笑いだした。
「勿論だ。だが、君のこの綺麗で長い髪が好きなので惜しくは感じるな。」
髪を一房掬って唇を落とされる。その間隔は甘い痺れを感じさせるほどに優しいのだが、少し照れくさくて、悪戯に伊知郎の鼻にキスをする。
「ロングフェチ?」
「何故そうなる」
「だって、髪が好きって」
自分でも言っている事がメチャクチャなのは分かっていた。呆れられるかなと思いながらも、きっと呆れられてしまったら悲しくなってしまうのだろうな、ととりとめない感情が溢れる。
不安なのだ。
元旦の奉納舞がこんなにも。
「君の髪だからだ。だが綾乃は短くても綺麗だろうな。」
そんな不安を宥める様に、伊知郎の言葉は続く。呆れられても仕方がないと思っていたのに、それでも優しく。それが嬉しくて、涙が出そうなくらい嬉しくて、ギュッと抱きついた。
「しばらく長いままでいい」
「何故?」
「伊知郎に触ってもらうの気持ちよくて好きだから。…ねえ、伊知郎」
声が震える。
思い出すのは赤。 おぞましい程に歪んだ空間の中、鉄錆びた血の臭い。
兄と親しんだ人が逃げろと叫ぶ声。
その声に、目の前に広がるゴースト達の恐ろしさに逃げる事は叶わず、結局は血塗れになった手が自分の手を掴んで走り始めた。
自分を守る為に腹に穴を開けても尚、彼は自分を連れ逃げてくれたのだ。
嘗ては自分がそうしてしまった人と同じ役目を、自分は伊知郎に頼もうとしている。
けれど、彼を置いて頼める人などいない。
ここを乗り越えなければ自分達は、いや、嘉凪の一族は従来の旧家と同じで凝り固まった考えのまま時を流れる一族に落ち着いてしまう。
氷を解かさねば。 自分の中の、そして一族の固定概念を。
そう思って、深く息を吸う。自分を抱きしめたままの彼は黙って静かに言葉を促してくれていた。
だからこそ顔を見上げて、その鉄色の曇りを知らない鋼の様に美しい瞳を見つめて唇を開いた。
「元旦に奉納舞を踊るの。その祭器の奉納に…同行してくれない?」
と言う訳で、ラブラブ風味だけどシリアスな内容です。
綾乃が嘗て兄と親しんだ人はちょいと前のSSでも書いた宗佑です。
奉納舞の事は1月1日に間に合うかと言われれば無理だと思うので、
まあ、ボチボチ書いていく予定です。
…もし見に行くって人がいたら、ここにコメかメールくれたら、
もしかしたら名前借りて書くかもしれません。
その際は、「何をするか」を書いててくれると嬉しいですな。
<何をするかの例:久臣やイッチーに話しかけるとか、
爺ちゃんに会いに行ってみるとか>